中国・重慶の街角に、ひっそりと佇む看板のないカフェがあります。その名も「一根魚(イーゲンユー)」。派手な宣伝も、インスタ映えを狙った装飾もないこの店は、しかし、多くの常連客に「第二の家」のように愛されています。オーナーである「見見(ジエンジエン)」先生は、有名チェーン店で10年間バリスタとして腕を磨いたベテラン。彼女はなぜ、誰もが憧れる「网红(ワンホン)」、つまりインフルエンサーに人気の店を目指さず、信頼と繋がりを基盤としたコミュニティ型のカフェを立ち上げたのでしょうか?一杯のコーヒーを通じて、人と人との温かい絆を育む「一根魚」の魅力に迫ります。
チェーン店で培った確かな腕と「温度」への思い
偶然から始まったコーヒーの道、そして有名チェーンでの修行
見見先生とコーヒーとの出会いは、ドラマチックなものではありませんでした。2015年、高校を卒業したばかりの19歳の彼女は、進路に迷い、たまたま見つけたカフェのアルバイト募集に応募したのが始まりです。小さなカフェでカップ洗いからミルクの泡立てまで、ひたすら基礎を学びました。毎日8時間以上立ちっぱなしで腕が上がらなくなるほどでしたが、熟練のバリスタたちが作り出す芸術的なコーヒーに魅了され、いつしか「自分もできるようになりたい」と強く思うようになります。
やがて彼女は、より深くコーヒーの世界を探求するため、重慶の有名チェーン店である「GreyBox」や「アラビカ(% Arabica)」、そして「Manner Coffee」といったブランドへ。特に「GreyBox」では、コーヒー豆の産地や焙煎度合い、抽出パラメーターに至るまで、体系化された厳格なコーヒー知識と品質管理を徹底的に叩き込まれました。当初は「まるで型にはめられているよう」と感じたものの、その徹底したこだわりこそが、彼女のプロフェッショナルとしての土台を築き上げたのです。
「冷たい」マニュアルから「温かい」繋がりへ
「Manner Coffee」では管理職として、コーヒーの品質管理だけでなく、顧客コミュニティの運営にも携わりました。お客様一人ひとりの好みを記憶し、チャットグループで日々の会話を楽しむ中で、「コーヒーはただの商品ではなく、お客様との温かい繋がりを生むものだ」と強く感じるようになります。しかし、チェーン店の画一的なルールは、時にその「温かさ」を阻害することも。「お客様が『少なめに』と言っても、マニュアル通りに提供しなければならない。コーヒーはもっと人間らしい温度があるべきだ」と感じるようになったのです。
さらに、年齢に対する現実的な不安も独立への思いを加速させました。「コーヒーバリスタは『若いうちの仕事』と見られがち。30歳を過ぎたら、本当にやりたいことができなくなるかもしれない」そう考えた彼女は、自分らしいカフェを作ることを決意します。
「一根魚」という名のカフェ、誕生までの道のり
「自由な魚、根を張る木」に込めた店名と、知恵と工夫の開店準備
2021年、友人との雑談の中で生まれたのが「一根魚」という店名でした。「魚のように自由に泳ぎたい」という思いと、「根(根っこ)のようにしっかりと地に足をつけ、自分らしさを見つけたい」という彼女の願いが込められています。店名のアイデアが芽生えてからは、開店に向けた準備が始まりました。
自己資金で少しずつ設備を買い揃え、自宅のバルコニーで小型の焙煎機を使い、来る日も来る日も焙煎の練習に励みました。店舗探しには半年を要し、最終的に選んだのは、賑やかな通りから少し外れた目立たない角地。家賃の安さが決め手でした。内装は費用を抑えるためにほぼDIYで行いましたが、工事中に業者に詐欺に遭い、5万元(約100万円)もの前払い金が消えるという苦難も経験します。しかし、「これは授業料だ」と前向きに捉え、困難を乗り越えました。そして2024年の国慶節、何の宣伝もなく、「一根魚コーヒー」はひっそりとその扉を開いたのです。
職人としてのこだわりと、お客様との共創メニュー
「一根魚」のカウンターには、電子秤とタイマーが常に置かれています。一杯のコーヒーを作る際の粉の量18グラム、抽出時間25秒、ミルクの温度65℃──チェーン店で培った徹底した品質管理は、彼女の「こだわり」として、より研ぎ澄まされて店に息づいています。毎朝、そして昼には必ず試飲を行い、微妙なパラメーターを調整して最高の味を追求する日々です。
コスト削減のためだけでなく、「自分らしい味」を追求するため、コーヒー豆は全て自家焙煎。シロップも電飯器(電気炊飯器)を使って手作りしています。お客様のフィードバックや何気ない一言から、人気メニューが生まれることも。冬の暖かいドリンクを考えていた時、お客様の「目玉焼きみたいに温かいね」という一言から、「荷包蛋咖啡(目玉焼きコーヒー)」というユニークな名前がつき、店の看板商品となりました。また、お客様が何を選んでいいか分からない時に、見見先生がインスピレーションでブレンドする「盲盒咖啡(ブラインドボックスコーヒー)」も人気を博し、ここから多くの新メニューが誕生しています。お客様もまた、「一根魚」のメニュークリエーターなのです。
顧客が「精神的な株主」となる、奇跡のコミュニティ形成
お客様との「繋がり」を深める独自のアプローチ
見見先生は、マーケティングに力を入れる代わりに、お客様との深い信頼関係を築くことに全力を注ぎます。「一根魚」には、お客様が自発的に参加する「WeChat」の私設グループが6つも存在します。「グループに参加すると、コーヒーが3元(約60円)割引」というシンプルな特典の裏には、見見先生のきめ細やかな心遣いがあります。彼女はお客様の名前を覚えるのが苦手な代わりに、携帯電話の下4桁と好みのコーヒーを完璧に記憶しています。お客様が店に入ると、何も言わなくても好みのコーヒーが出てくる。この「自分は特別に大切にされている」という感覚が、お客様の心を掴んで離しません。
コミュニティ運営も「仏系(のんびりした)」スタイルです。SNS投稿を強制したり、頻繁な宣伝で疲労感を与えたりすることはしません。週に一度、無料コーヒーの抽選を行うのも、「ちょっとした楽しみを提供して、店に足を運んでもらいたい」という純粋な気持ちからです。このような「見見先生流」の運営が、お客様の自発的な応援に繋がり、驚くべき化学反応を生み出しています。
お客様が「第二の家」として育てるカフェ
「一根魚」には、インスタ映えするような華やかな装飾はありませんが、カウンター横の壁には、お客様が貼ったポラロイド写真や子供たちの落書き、手書きのメッセージが所狭しと飾られています。「今年一番美味しいラテだった」「一根魚がずっとここにあることを願ってる」。これらの写真は、見見先生が飾ったものではなく、お客様が自ら持参したものなのです。見見先生は「ここはみんなの『第二の家』なんです」と語ります。
オープン1周年を迎えた際には、お客様が自ら店のロゴをデザインした冷蔵庫マグネットや、オリジナルのカップまで制作してくれました。これらの限定グッズをチャージ特典にしたところ、多くのお客様が「あなたの小さなお店を応援したいから」と、わざわざチャージに訪れたそうです。ランキングトップの常連客は、これまでに2万元(約40万円)以上を消費しており、彼らが応援しているのは、単なるコーヒーの味だけでなく、店が提供するライフスタイルや温かいコミュニティの雰囲気そのものなのです。
まとめ
重慶の路地裏で静かに成長する「一根魚」の物語は、現代の消費社会において、マーケティングや流行に流されることなく、真の価値と人間らしい繋がりを提供することの重要性を私たちに教えてくれます。デジタル化が進む世の中で、見見先生が築き上げたアナログな「温かさ」と「信頼」は、お客様を単なる消費者ではなく、「精神的な株主」へと変え、ビジネスを成功に導く大きなヒントとなるでしょう。日本のカフェ文化にも通じる、こうした人と人との絆を大切にする姿勢は、今後ますます注目されていくのではないでしょうか。
元記事: kanshangjie






