今から40年前、現代のゲーム開発とは全く異なる方法で、任天堂アメリカがプレイヤーの生の声をいかに重視していたかをご存知でしょうか? 偶然の出会いから、後のゲーム業界に多大な影響を与えることになる任天堂初の「ゲームマスター」が誕生した、驚きの物語があります。この記事では、『ドンキーコング』のテストプレイ中にスカウトされた一人の青年、ジェリー・モモダ氏の運命的な出会いと、黎明期のゲーム開発現場における貴重なフィードバック収集の裏側に迫ります。
黎明期のゲーム開発:プレイヤーとの偶然の出会い
物語は1982年、ワシントン州レントンにあるバーで幕を開けます。野球の試合を終えたばかりのジェリー・モモダ氏は、恋人と共にバーを訪れ、アーケードゲーム『ドンキーコング』に夢中になっていました。当時、ボーイング社で働く傍ら、生粋のアーケードゲーム愛好家だったモモダ氏の巧みなプレイを、一人の男性が興味深そうに観察していました。その男性こそ、後に彼の運命を大きく変えることになる任天堂アメリカのマーケティング担当副社長、ロン・ジュディ氏でした。
ジュディ氏は、画面上のマリオを巧みに操り、樽をかわしながら囚われたレディを救い出すモモダ氏の卓越したスキルに目を奪われ、「どうすればそんなに上手くプレイできるんだい?」と声をかけます。モモダ氏は「これは単純なコンピュータープログラムです。操作をすれば、ゲームの反応を予測できます」と答えました。この出会いをきっかけに二人は言葉を交わし、ジュディ氏はモモダ氏に名刺を渡し、数週間の連絡を促します。このささいな出会いが、モモダ氏を任天堂初の「ゲームマスター」という道へと導き、セガ、SNK、アタリ、ナムコといった名だたる企業を渡り歩く、25年にも及ぶゲーム業界での輝かしいキャリアの始まりとなったのです。
モモダ氏はワシントン大学でビジネスとマーケティングを専攻し、卒業後はボーイング社に就職。しかし、彼の真の情熱は常にゲームにありました。10代の頃に出会った電動機械式レースゲーム『ロードランナー』を皮切りに、アタリの『ナイトドライバー』、そして後に彼の人生を決定づけることとなる任天堂の『ドンキーコング』に熱中します。初めて『ドンキーコング』を見た時の衝撃を、モモダ氏はこう語っています。「なぜかは分からないけれど、すぐに夢中になりました。他の人がプレイするのを見ているうちに、どんどん惹きつけられていったんです。これまでのゲームとは全く違う、そのゲームプレイに深く魅了され、私も『ドンキーコング』の達人になりたいと思いました。」
『ドンキーコングJR.』とフィードバックの重要性
ジュディ氏との出会いから数週間後、モモダ氏は『ドンキーコング』や他のアーケードゲームに関する自身の見解をジュディ氏に伝え続けました。そしてある日、ジュディ氏から新たな依頼が舞い込みます。それは、テスト段階にあった新作ゲーム『ドンキーコングJR.』を試遊し、感想を聞かせてほしいというものでした。試遊場所は、ワシントン大学の近くにある「Goldie’sバー」。ここは単なるバーではなく、当時のコイン式ゲーム機器販売業者「Music Vend」の重要なテスト拠点であり、任天堂だけでなく、アタリ、セガ、タイトー、コナミなど様々なメーカーの新作が顧客の反応を測るために置かれていました。
モモダ氏は『ドンキーコングJR.』をプレイし、すぐにその改善点を指摘します。特に初心者向けの導入が不十分であること、そして初代『ドンキーコング』の爆発的な人気を考えると、続編がプレイヤーを十分に惹きつけるのは難しいだろう、と率直な意見を述べました。彼の懸念は的中し、『ドンキーコングJR.』はテスト期間中、初代ほど高い評価を得ることはできませんでした。
「私は『ドンキーコングJR.』が好きでしたが、そのゲームプレイは前作とは全く異なりました。特に初心者向けのチュートリアルが不十分だと感じました。初代『ドンキーコング』では、プレイヤーはまずジョイスティックを右に倒せばマリオが動き出すことを直感的に理解し、迷路のようなルートも一目瞭然でした。しかし、『ドンキーコングJR.』では、つるを登ったり、右に移動したりと、プレイヤーはより多くの思考とスキル、タイミングを要求されます。初心者のプレイヤーが何度も同じ間違いを繰り返し、なぜキャラクターが死んでしまうのか分からず、困惑し、最終的にゲームを諦めてしまうのを何度も目撃しました。」
モモダ氏の詳細なフィードバックはジュディ氏に真剣に受け止められ、彼は任天堂アメリカの初代社長である荒川実氏(山内溥元社長の娘婿)に紹介されます。荒川社長はGoldie’sバーでモモダ氏のプレイを直に観察し、彼のゲーム知識と技術に感銘を受けました。そして翌日、当時の任天堂アメリカの拠点だったシアトルの倉庫にモモダ氏を招き、社員の前で『ドンキーコングJR.』のデモンストレーションを依頼します。300平方フィート(約27.87平方メートル)にも満たない小さなオフィススペースで、約10名の任天堂社員がモモダ氏のプレイに釘付けになりました。このデモンストレーションの後、モモダ氏は顧問として任天堂に加わり、約2ヶ月後には「市場調査アナリスト」として正式に採用されることとなります。これが、任天堂初の「ゲームマスター」誕生の瞬間でした。
伝説のゲームマスターが語る、現代に繋がる開発哲学
ジェリー・モモダ氏の物語は、単なる一人のゲーマーの成功譚ではありません。それは、まだゲーム産業が黎明期にあった時代に、いかにして企業が「プレイヤーの声」に耳を傾け、それを開発に活かしていたかを示す貴重な証言です。
40年前、現代のようにオンラインでのベータテストやSNSを通じた大規模なフィードバック収集ができなかった時代に、任天堂アメリカはバーというアナログな場所で、実際にゲームをプレイする熱心なプレイヤーの意見を直接聞くことで、製品の改善を図っていました。モモダ氏のような卓越したプレイヤーの視点と、それを初心者にも分かりやすく分析する能力は、当時のゲーム開発において極めて重要な役割を果たしたのです。
彼の指摘が『ドンキーコングJR.』の設計にどのような影響を与えたかは定かではありませんが、このエピソードは、いかに任天堂が早くから「ユーザーエクスペリエンス」を重視していたかを物語っています。現代のゲーム開発においても、プレイヤーのフィードバックは不可欠です。しかし、時にデータ分析や大規模なアンケートだけでは見落とされがちな、「一人の熱心なプレイヤーが抱く直感的な感情」の重要性を、この40年前の物語は私たちに改めて教えてくれています。任天堂の成功の礎の一つには、このようなプレイヤーとの真摯な対話があったことを、私たちは忘れてはならないでしょう。
元記事: chuapp
Photo by Dan Butler on Pexels












