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恐怖と笑いは紙一重?偽ドキュメンタリーホラーが直面する「整活」の罠

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中国のゲーム・エンタメメディア「触楽(Chuapp)」が、現代のホラー作品、特に偽ドキュメンタリー形式の恐怖コンテンツについて興味深い考察を共有しました。記事では、恐怖と滑稽さが紙一重であるというテーマを掘り下げ、過剰な演出や設定が視聴者を恐怖から興ざめさせる「整活」(ふざける、ネタにする)状態に陥る現象を指摘しています。日本でも人気の「TXQ Fiction」シリーズや『近畿怪談』を例に挙げながら、作品が観客の感情をコントロールする難しさ、そしてホラー表現における「しきい値」の上昇について語られており、日本のホラーファンにとっても共感できる内容が満載です。

偽ドキュメンタリーホラーの「飽和」と「しきい値」

筆者は以前、偽ドキュメンタリー形式のホラー作品に強く惹かれていたといいます。当時人気だった『尋找石永菊江』『向飯沼一家謝罪』『魔法少女山田』『UFO山』『神木隆之介』など、多くの作品を鑑賞。中には視聴する時間がなくとも、ゲーム実況者の解説でストーリーを追った作品もあったそうです。特に、恐怖を感じるシーンや音声を配慮して加工し、事前に警告してくれる配信者には、ホラーは好きだが怖がりな自分にとって大変ありがたいと述べています。

しかし、こうした作品が増加するにつれて、観客の鑑賞に対する「しきい値」も高まり、筆者は偽ドキュメンタリーホラーが「形式が内容を上回る」、そして「精神汚染」効果をひたすら積み増す傾向にあると感じているそうです。これは必ずしも悪いことではありません。ホラー作品は本物らしさがあって初めて人を怖がらせることができるからです。一方で、それは監督や脚本家の手腕を非常に強く問うことになります。なぜなら、恐怖と荒唐無稽は紙一重だからです。

観客の感情を特定の範囲内に留めることができれば恐怖として成立しますが、一度その一線を超えると、感情はコントロールを失い、論理の破綻によってかえって滑稽に感じられてしまうのです。

恐怖を滑稽に変える「数値」のパラドックス

この「範囲」は様々な次元を含みます。例えば、「数」です。ある中国のYouTuberが挙げた例を引用すると、「もし主人公が家で見慣れない刺繍靴を一足見つけたら、読者は怖がるでしょう。しかし、もし主人公が家で百足の刺繍靴を見つけたら、読者は『靴のセールか?』としか思わないでしょう」。筆者は、この恐怖の度合いを、ある種の数値ゲームになぞらえています。数値が許容範囲内であれば、プレイヤーはそのゲームの遊び方やメカニズムを真剣に受け止めます。しかし、数値が常軌を逸し、「0」が多すぎると、プレイヤーはそれを「クソゲー」だと感じ、興味を完全に失ってしまうのです。

色と造形がもたらす「興ざめ」

さらに、恐怖と滑稽さを判断する他の次元として「色」と「造形」が挙げられます。「色」の例は、岩澤宏樹監督の『局へ送られてきた心霊映像』(中国語タイトル『寄往电视台的神秘影像』)です。劇序盤は、VHSテープ、不気味な映像、赤い服の女性、超能力現象、数年前の謎の組織といった要素で、かなり現実的に展開されます。音響は耳障りでしたが、題材を考慮すれば許容範囲でした。

しかし、筆者が思わず興ざめし、笑いそうになったのは、物語が1973年に開設された児童養護施設に移り、施設内に建つ、全体が赤く内装も赤い洋館が「緋紅宮殿」と呼ばれた場面です。この情景を頭の中で想像しただけで、その「中二病」的なネーミングに笑いをこらえることができませんでした。劇中では、施設の院長が霊術を信奉し、青は邪悪、赤は吉兆だと考えていたためという説明がありました。ホラー映画としては不合理ではない説明ですが、その後を観ていても、筆者は常にその「真っ赤な家」と「中二病な呼称」を連想してしまい、一切の恐怖を感じることができなかったといいます。

正直なところ、『局へ送られてきた心霊映像』には見どころもあります。例えば、ストーリーにAI要素が組み込まれ、短時間ながらも手がかりとして登場することで、観客に「これは現代に起こった物語だ」という現実感を与えています。あの唐突な赤色の建物と「中二病」的な名称が強調されていなければ、もっと評価は高かったでしょう。

一方、「造形」によって興ざめさせてしまったホラー映画の例として挙げられているのが『近畿怪談』です。筆者はこの映画の前半を非常に高く評価しています。「情報収集して怪異事件を調査する」という古い題材ではありますが、作中で描かれる時代感や偽ドキュメンタリー要素が非常に自然でした。主演が菅野美穂であることも特筆すべき点です。あの「富江」で知られる菅野美穂ですから!

ところが終盤、物語は突如として「クトゥルフ神話」へと転換し、怪物の本体を見た時、筆者は思わず爆笑してしまったそうです。「これだけ?」と。撮影過程の詳細は不明ながら、監督がCGの予算が十分でなかったのではないかと推測し、「触手怪物がうまく作れないなら、いっそ作らない方がいい」とまで言っています。宇宙から来た恐怖の生物どころか、模型愛好家の間でも酷評されるレベルだったとのこと。正直なところ、怪物よりも終盤の瀬野(菅野美穂演)の表情の崩壊の方が衝撃的だったそうです。

『近畿怪談』は小説が原作で、偽口述史や叙述トリックが好評を得たものの、結末の性急さや種明かしが直接的すぎると批判されたようです。これも、この手の作品に共通する課題かもしれません。伏線や導入が巧みであればあるほど、観客は期待値を高めます。その期待に応えられない結末であれば、観客が納得しないのは当然のことでしょう。

ゲームと映像作品における没入感の違い

最後に、別の視点から見ると、小説や映画といった形式は、観客が純粋な鑑賞者であるため、一度興ざめしてしまうと、なかなか没入し直すことができません。対照的に、ゲームはプレイヤーの操作を必要とするため、没入感がより強く、興ざめしにくい傾向があります。たとえある場面でやや緩い部分があったとしても、その後に追跡戦や連続したジャンプスケアが加われば、プレイヤーは気を引き締めて再びゲームに没頭せざるを得ません。

好例として、台湾のホラーゲーム『女鬼橋2:釈魂路』に登場するバレエボスは、非常に素晴らしいデザインだったと筆者は評価しています。これは、筆者が一部のホラーゲームをプレイ中は非常に興奮したにもかかわらず、プレイ後に「このストーリーは抽象的すぎたな」と冷静になった経験があることにも繋がります。しかし、一度プレイしてしまえば、たとえ開発者が「整活」(ネタにしている)と分かっていても、それはそれで仕方がない、と受け入れられるのです。

まとめ

本稿は、ホラー表現の難しさと、観客やプレイヤーの「しきい値」が上昇する現代における作品制作の課題を浮き彫りにしました。特に偽ドキュメンタリーという形式がもたらすリアルさと、一歩間違えれば滑稽に転じる危うさを、具体的な作品例を交えて解説しています。映像作品とゲームの没入感の違いという視点は、今後のホラーコンテンツの発展を考える上で重要です。観客を本気で怖がらせつつも、時には笑いの要素も受け入れる「整活」精神が、新たなホラーの魅力を生み出すかもしれません。

元記事: chuapp

Photo by Arman on Pexels

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