中国のゲームメディア「触乐」のコラム「触乐怪话」から、現代ゲームのあり方について深く考察した記事をご紹介します。筆者は、まだ開発途中のオープンワールドRPG『特里修斯之門』(The Doors of Trithius)に夢中になっているといいます。グラフィックは洗練されておらず、進行も遅いこの“半完成品”ゲームが、なぜ筆者をそこまで惹きつけるのでしょうか? 本記事では、『特里修斯之門』に見られる「純粋な楽しさ」や「生活の真実」を伝えるゲームデザインに焦点を当て、現代の多くのゲームが陥りがちな「作業化」や「精巧さ」の罠について、鋭い視点で問題提起しています。日本のゲーマーにとっても、改めてゲームの「面白さ」とは何かを考えさせられる内容となっています。
『特里修斯之門』に見る“古き良きRPG”の魅力
最近、筆者が熱中しているのは、2021年にリリースされながらも、いまだバージョン0.5という未完成のオープンワールドRPG『特里修斯之門』です。このゲームは、進行速度が非常に遅いことで知られています。地中を這うようなキャラクターの動き、一つ一つのマス目を移動するマップ、セリフの少ないNPCたち。ネズミのような弱いモンスターを倒すのにさえ、複数回の攻撃や魔法が必要となるほどです。レベルアップも同様に緩やかで、数百から数千の経験値を稼いでようやく1レベル上がるという徹底ぶり。しかし、筆者はこのゆっくりとした“半完成品”に夢中だといいます。
このゲームは、かつて筆者が熱中した『上古巻軸3』(The Elder Scrolls III: Morrowind)を想起させるとのこと。『特里修斯之門』は、完成度、グラフィック表現、戦闘システムなど、あらゆる面で現代の洗練されたゲーム『紫色晶石』(Purple Shard)には及ばないものの、筆者の心の中では完全に後者を超越していると感じています。
開発途上ながらプレイヤーを惹きつける理由
『特里修斯之門』のレビュー欄には、興味深い低評価が多く見られるといいます。その理由は複雑ですが、一言で言えば、このゲームが「シンプルで粗野ながら、ある種の純粋な楽しさを再現しているから」と筆者は分析します。これは、ゲームが本来持つ「エンターテインメント活動の抽象的な表現」としての芸術性にも通じるものです。つまり、このゲームは、より生活体験に近い「真実」を伝えているというのです。
ゲームは古典的なRPG構造を採用しており、プレイヤーは廃墟となった神殿で目覚め、ネズミや粘土のような敵と戦いながら、様々なスキルを習得していきます。スキルシステムは『上古巻軸』シリーズに似ており、特定の行動を通じて熟練度を上げ、それに応じてスキルポイントを割り振って能力を向上させる仕組みです。さらに特徴的なのは、スキルが非常に細かく分解されている点です。
例えば、肉の煮込みを作るには、「煮込み」「肉処理」「蒸す」という3つのサブスキルをそれぞれ習得する必要があります。同様に、薬を調合するには、「薬草学」「錬金術」「薬学」という3つの大カテゴリの下に無数に存在するサブスキルを、それぞれ長い時間をかけて習得しなければなりません。メインクエストが未完成で、サンドボックス要素が強いこのゲームに筆者が長時間没頭できるのは、まさにこの奥深いスキルシステムにあるようです。
現代ゲームが失った“真の没入感”とは?
このような「手間のかかる古いゲームばかりが面白いのか?」という問いに対し、筆者は以前、「昔のゲームに自分が形成されただけなのではないか?」「今のゲームを楽しめないのは自分の問題ではないか?」と自問自答していたといいます。しかし、今は違います。筆者が本当に好きなのは、熟練度システムやリアルな表現そのものではなく、ゲームを通じて生活体験の中にある「真実」を伝えようとするデザイン思想なのだと確信しているからです。
「精巧さ」の裏に潜む「作業化」の罠
現代のほとんどのゲームについて、筆者は「非常に精巧」であると同時に「非常に『作業』的」だと感じています。例えば、『紫色晶石』は、いわゆる「没入型」ゲームに必要な要素を全て詰め込んでいます。世界のあらゆる草木とインタラクションでき、セーブすら睡眠を通じてしか行えない徹底ぶりです。しかし、その結果はどうでしょうか? 筆者は、これはもはや没入感のあるゲームではなく、「周回作業(刷子)ゲーム」になってしまっていると指摘します。
現代のゲーム開発者は、往々にして古典的な作品の楽しさを抽象化し、それをよりシンプルで直接的、高度に設計され、予期せぬ要素がない線形デザインに置き換えるのが得意です。そして、それを大々的に販売します。これはまだ良い方で、ひどい例として『無主之地4』(Borderlands 4)のようなゲームになると、プレイヤーですら違和感を抱き始めているといいます。「果たしてこれが面白いと言えるのか?」と。
「現代的」という言葉の曖昧さとゲームの未来
現代の若いゲーマーたちは、もはや「共通の経験」を求めません。彼らの生活は分断され、断片化しており、古いゲームの魅力を理解できないばかりか、ゲームを作る側でさえ、「古典ゲーム」の何が素晴らしいのかを理解できず、「現代的でない」と一蹴してしまう風潮があるといいます。
では、「現代的」とは一体何なのでしょうか? 筆者は、この言葉が「よりシンプル」「より便利」「より直接的」といった言葉とセットで使われるものの、その本質が誰も答えられない曖昧なものであると指摘します。本当に「現代的」であることだけを追求した結果、ゲームが本来持っていた純粋な楽しさや深い体験が失われていないか、という問いを投げかけているのです。
まとめ:ゲームが教えてくれる「生活の真実」とは
中国の「触乐怪话」コラムは、グラフィックや利便性だけを追求する現代のゲーム開発に一石を投じています。未完成ながらもプレイヤーを深く惹きつける『特里修斯之門』は、私たちが普段の生活で感じるような、地道な努力や習得の喜び、そして不便さの中にこそ存在する「真実の体験」をゲームを通じて提供していると言えるでしょう。
日本のゲーム市場においても、近年は効率性や手軽さが重視される傾向にありますが、このコラムは、時には立ち止まって、ゲームが持つ本質的な魅力、すなわち「遊び」を通じて得られる「生活への洞察」を再評価する機会を与えてくれます。複雑なスキルツリーや遅い進行速度が、プレイヤーに自らの手で道を切り開く達成感や、世界を深く探求する喜びをもたらす可能性を示唆しているのではないでしょうか。ゲームの未来を考える上で、単なるエンターテインメントに終わらない、より深い体験を提供できる作品の価値が見直されるきっかけとなるかもしれません。
元記事: chuapp
Photo by Luis Quintero on Pexels












