小島秀夫監督の傑作『デス・ストランディング』の壮大な冒頭を飾る一節をご存知でしょうか?「縄と棒は、人間が最初に発明した二つの道具だ」という、安部公房の小説『縄』からの引用です。この言葉は、ゲームの世界観と深く結びつき、人類の文明と繋がりを象徴するかのようでした。しかし、この引用文の原作である安部公房の『縄』は、ゲームが描く「繋がり」のテーマとはかけ離れた、ある種の衝撃的な真実を秘めていたのです。本記事では、この言葉に隠された安部公房の意図と、小島監督がそれをどのように受け止め、自身の作品に昇華させたのかを深く掘り下げていきます。
『デス・ストランディング』を彩る安部公房の言葉
小島秀夫監督の代表作『デス・ストランディング』は、その壮大な世界観と独特なゲームプレイで多くのゲーマーを魅了しました。特に印象的なのが、ゲーム冒頭で引用される安部公房の言葉です。
「縄索(じょうさく)と棍棒は、人類が最初に発明した二つの道具だ。縄索は良いものを手元に収め、棍棒は厄介事を防ぐ。両者とも我々の最初の友であり、我々が作り出したものだ。人間がいるところには、必ず縄索と棍棒がある。」
原記事の筆者もこの言葉に感銘を受け、人類文明の黎明期を想像したといいます。ゲームはその後、「デス・ストランディング」後の冷寂とした世界を一連のカットで描き出し、言葉と映像が織りなす壮大な雰囲気がゲームの導入を印象深いものにしていました。
『縄』の衝撃的な真実:小島監督の解釈との乖離
しかし、原記事の筆者が安部公房の短編小説『縄』の中国語翻訳版を読み解いたとき、その解釈は想像をはるかに超えるものでした。小説の背景は、『デス・ストランディング』が伝えようとする「繋がり」の理念とは全く異なる、不穏で残酷な物語だったのです。
廃品置き場と二人の姉妹
物語は、廃品置き場の監視員が壁の穴から、子供たちが犬を虐待している様子を覗き見る場面から始まります。そこへ、川から上がってきた二人の幼い姉妹が現れます。姉は約10歳で麻紐を持ち、妹は8、9歳。彼女たちは子供たちがいる廃品置き場で服を乾かします。
姉妹の父親がやってきて監視員に門を開けるよう懇願しますが、監視員は門の小窓から、姉妹がその麻紐で犬を絞め殺しているのを目撃し、やがて門を開けます。父親は姉妹に自分と一緒に帰るよう(共に死ぬことを)懇願しますが、彼女たちは拒否。姉のポケットにあった100元(約2000円)を、父親は自分の破れた靴と交換して賭博に向かいます。
衝撃の結末と「縄」の意味
夜、姉は麻紐を引きずり、妹は破れた靴を持って父親のボロ家に帰宅。父親がすでに寝入っている間に、犬を殺したのと同じように、その麻紐で父親の首を絞め殺します。その後、姉妹は父親の枕の下にあった数千元の中から100元だけを取り、父親の靴を彼の枕元に戻すという、戦慄すべき結末を迎えます。
実はこの恐ろしい結末の直後に、安部公房は『デス・ストランディング』で引用された「縄と棒」についての考察を書き記していたのです。原文にはさらに、「今でさえ、それらは家族のように、あらゆる住宅に浸透し、住みついている」という一文が続きます。
姉妹が「縄」を用いて父親を絞め殺した行為は、「良いものを手元に引き寄せる」という縄の定義とは一見異なるように見えます。しかし、父親という「厄介事」を「棒」のように遠ざけ、自らの「安全」という「良いもの」を確保したと解釈すれば、まさに「縄」と「棒」の機能の相互変換、あるいは一体性を象徴していると言えるでしょう。これは、幼い子供ならではの「素朴な残酷さ」ともいえる、人間の根源的な側面を抉り出す描写です。
小島秀夫と安部公房:異なる哲学、共通のインスピレーション
安部公房の作品は、『縄』に代表されるように、人間の異化、都市の冷酷さ、覗き見と権力の関係といった「陰鬱な」テーマに深く切り込みます。登場人物は名前を持たず、不利な状況に陥り、最終的に自己を見失う傾向があります。原記事の筆者も安部公房を読み込む中で、彼を「根底から悲観的な人物」だと感じたそうです。
一方、小島秀夫監督は高校時代に『縄』を読み、「縄」を「棒」として使う姉妹の行為を認識しつつも、「彼女たちを突き動かしたのは、生命なのか、それとも100円硬貨なのか?」と問いかけ、「彼女たちが生命のためにやったと信じたい」と述べていたといいます。
『デス・ストランディング』のエンディングで、主人公サムは「棒」を象徴する武器を捨て、アメリを抱きしめます。これは「人と人の繋がり」という「縄」の象徴を体現しており、安部公房の描いた世界観とは対照的に、小島監督の根底にある楽観主義が強く表れています。さらに『デス・ストランディング2』でも、硬漢の口を通して「繋がり」の重要性が改めて強調されています。これは『メタルギアソリッド2』における「ミームの伝達」にも通じる、人間の知恵、力、勇気を信じる小島監督の一貫した姿勢です。
小島秀夫監督と安部公房の人格の根底は異なるかもしれませんが、安部公房の作品が小島監督に多大なインスピレーションを与えてきたことは間違いありません。『デス・ストランディング2』のエンディングでも、安部公房の『現代への執着』からの引用が再び使われています。
「未来は、今この瞬間の産物であるとはいえ、明日はやはり今日のものではない。生きることは、未来の自分を想像することだ。我々は必ず未来にたどり着くが、その未来で、想像通りの自分になっているとは限らない。」
この言葉は、小島監督が作品を通して伝えようとする、未来への希望と、不確かながらも前向きに進む人間の営みへの信頼を象徴しているのかもしれません。
まとめ
『デス・ストランディング』の冒頭に引用された安部公房の言葉が、その原作においてこれほどまでに深淵で衝撃的な意味を持っていたことに驚かされた方も多いのではないでしょうか。小島秀夫監督は、安部公房が描いた人間の残酷さや異化のテーマを深く理解しつつも、独自の「繋がり」というテーマで昇華させ、作品に光と希望のメッセージを織り込みました。これは、一見すると対照的な二人の巨匠の哲学が、文学とゲームという異なる表現媒体を通じて共鳴し合う、極めて稀有な例と言えるでしょう。
日本の読者である私たちゲーマーにとって、自国の文豪の作品が世界的なゲームクリエイターに与えた影響を深く知ることは、ゲーム体験を一層豊かなものにしてくれます。今後も小島監督の作品が、どのような文学的・哲学的インスピレーションを内包し、私たちに新たな問いを投げかけるのか、注目せずにはいられません。
元記事: chuapp
Photo by Cesar Ricciulli on Pexels












